はじめに

現役の時代(1996年頃)私たち(嵯峨貫さんを含めて他)は、新橋近くの会社に勤めていました。

帰り道毎日のように居酒屋に行ってお酒を飲んでいました。

その時、酒の肴に、色々のことが話題になりました。老齢化の話と臓器移植の話も出てきました。


脳も移植できたら・・・・

老人の人生経験の豊かな知識持つ脳を、まだ未熟で未完成な、優れた若者の肉体に移植したら、

世界に通じる人間が出来るのではないか?と言うことで、SF小説を書こうという話になったのです。

一人だと能力的に無理なので合作と言うかアシストというか・・そういう方法で書こうと言っていたのですが・・・・


それから何年たっただろう定年後、そのことを思い出して2001年5月に書き始めました。

書き始めますと、合作では、二頭支配になり話の筋が支離滅裂になる恐れがありますので取敢えず

私が一人で書き進めることにしました。

そしてその年の暮に一応曲りなりですが、出来上がりました。

そこで嵯峨貫さんsammyさんやfwkv9353さんに読んで頂き、サジェッション頂き修正したのがこの小説です。

この小説は、章が変わるごとにぴょんぴょんと話が跳びます。

この小説を絵に喩えるならジグソウパズルです。

そして各章は、その1ピースです。

読者の皆様は、その1ピースが絵のどの部分に当たるか考えながら読んで頂きますと、

より楽しく読めるのではないかと思います。


宜しくお願い致します。

 

toshy

 

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登場人物

北村 耕一: 主人公 テニス日本№1身長175cm引退後は、甥の丈司のコーチを務める。

藤田 翔子: 若い頃の耕一の恋人、夏川陽介に嫁ぐ、亜紀の母

夏川 亜紀: 翔子の娘、丈司の恋人

北村      亮: 耕一の父、ニュートロニクス代表取締役 社長

北村   智子: 耕一の母

北村   尚子: 耕一の妹、平井拓也に嫁ぐ、丈司の母


平井 拓也: ニュートロニクス若手技術者、尚子の夫

平井 丈司: 平井拓也の長男、学生テニス日本№1身長191cm、事故で植物人間となる

平井 丈志: 植物人間の丈司の体に耕一の脳を移植 ATP№1

矢代 達也: 丈志の高校・大学の無二の親友

夏川 陽介: 翔子の夫、亜紀の父 一流商社勤務


緒方 俊之: 自己顕示欲の少ない最先端の脳外科医師

相馬 卓巳: 緒方医師の友人、長野の獣医師

セバスチャン・ビューラ: 緒方医師の友人、スイス脳外科医師

アンディー・ジョーンズ: ビューラ医師の友人イルカセラピー

長嶺 輝久: 高校生の時、事故で失明、作家・執筆活動

ニコルス:  長嶺の盲導犬


由原 真子: 藤田翔子の友人

赤秀   誠: 耕一の先生、テニス部の顧問

大岩 信也: 丈志の新しいテニスのコーチ

篠田   勇: 丈志の友人

片山 慎也: 丈志の友人


ジム・ウイルソン(米): テニスATP№1

アーニー・ソレム(スェーデン): テニスATP№2

マイケル・ケディー(豪): テニスATP№3

シュテイン・バダー(独): テニスATP№4

アラン・ラルベス(米): テニスATP№5

ロバート・ウォムレス(英): テニスATP№6

 

★ 登場する人物・会社名は、すべて架空の物です。

プロローグ

今から約2250年前、あの広大な中国を始めて統一した秦の始皇帝は、日常生活では

何ら自分の思い通りにならないことは、何もなかったが、不老長寿の願いだけは

叶えられなかったようである。

東の海に蓬莱・方丈・瀛洲という三神山があって仙人が住んでいる。そこに不老不死の

薬があるので、徐福を派遣したが結果として得られるものは何も無かった。

男女を問わず、いつまでも若く希望に満ちて、充実した生活を送りたいとの願望は

誰しもあります。

 

この話は、近代医学の発展と医療技術の進歩により、私が体験をした貴重な出来事で

す。

年老いてから世界に飛翔する若者の素晴しい人生を経験した、私こと 北村耕一の

話です。

 

この素晴らしい人生を演出するために斬新な医療に取り組み頂いた医師の方や

情熱的に治療を下さった医療関係者の皆様方に心から感謝いたします。

また、私の周囲にいつもいて、励まし、勇気づけてくださった友人達や、またご支援

下さったテニス関係者の方々、それに私の親族に、心からお礼申し上げます。

 

私の特異な人生と体験については聴く人、見る人によって、それぞれの人がそれぞれ

の感じ方をすることと思います。中には疑問をもたれる方や非難される方も多いとかと

思います。

無意識のうちに法を犯し……?

例え犯していないとしても倫理的に人道的に反することをしてしまったかも知れません。

私に対するご意見やご非難は、甘んじて受けるつもりです。

 

しかし、その前に私の話を良く聞いていただき、私のこの自叙伝を読んで下さって、

その上で、それぞれの方のご意見を伺わせて頂きたいと思います。

また、風の便りで私のことについて知り、新たに私に関心を持たれる人もいるとかと

思われます。

その人達に余計な先入観を抱かせたり誤解をなくすために、ここで明かした私の体験と

結末については決して人には語らないで下さい。

 

  2037年 秋                                      北村耕一

 

 目次
                         ページ
1 希望の朝                    6
2 ホップマンテニスキャンプ           10
3 耕一の生い立ち                33
4 耕一の悲しい思い出             36
5 惜別                       50
6 テニスのトレーニング              57
7 葛藤と失意                      62
8 事故                       66
9 緒方医師の診断                74
10 臓器移植の発展               78
11 緒方医師の新しい取り組み         81
12 脳移植外科手術               97
13 リハビリテーション              111
14 猛練習                    125
15 テニス選手権                140  
16 抱擁                       155
17 ニューヨーク観光              158
18 ウインブルドン大会              176
19 目覚め                     183

   

1 希望の朝

雨上がりの日差しが眩しい朝である。

庭の何処からか仄かに漂ってくる金木犀の甘酸っぱい香りが心を和ませてくれる。

昨日、久し振りに部屋の掃除をしたのでテーブルクロスが真新しく清々しい。

丈司は、朝おきていつも習慣となっている「ラヴェルのボレロ」を聞きながらテーブルで

レモンティーを飲んでいた。


朝の風が爽やかで、「ボレロ」のリズムも一層、快く聞こえる。

口の中一杯にレモンの香りが広がってなんとも言えない幸福な気分に浸っていた。


今日も一日、何か好いことがあるような明るい気持ちになっていた。


大学のインター杯で優勝しテニスの若手では、日本でトップクラスになった今、

その達成感と将来への希望に胸をふくらませて幸福の頂点に立っていた。

高校生の頃アメリカのフロリダ州にあるホップマンテニスキャンプに参加した経験は

あるが、大学生活を終えようとしている今、更に技術を磨きレベルアップすべく

来年早々、再度改めてキャンプに参加することになっている。


「丈司」の名は、正式には「たけし」と読むが、音で読むと「ジョージ」と読むことが

出来る。

大きくなって、何事かで世界に羽ばたくことができた時、英語読みで「ジョージ・ヒライ」

と読むことが出来るので、欧米の人々でも覚え易いとの配慮から父が期待をこめて

つけた名前であった。


テニスの方面では、往くいくは日本を制して、世界に羽ばたきたいと考えていた。

当面の目標は、日本選手権である。そのため八月の暑い日から特訓を続けている。

コーチは、尊敬する先輩であり伯父にあたる北村耕一である。


壁にかけている大きなプラズマテレビが朝のニュースを放送している。


2036年度の国勢調査によると、日本の人口は1億690万人で、このまま行くと

2050年には1億59万人となり、1億を割るのも時間の問題だそうである。


日本の人口は、2010年度を境に減少の一途を辿っている。

若年層が少なくなって将来性を案じる人も多い。

老人の人口が増え続けているので急激な減少になるのをカバーしているのが

実態である。

 

しかし、高齢化社会は一つの大きな社会問題を引き起こしている。

医学の進歩と食生活の改善が老齢人口の増加に大きく寄与しているからだ。

現在の女性が一生のうち何人の子供を生むかを示す出生率は、去年2036年度は

1.29であった。


人口を一定以上に維持するためには少なくとも2.08以上が必要とされている。

日本は、国境を越える人口の移動が比較的に少ないため、このままでは労働人口の

減少を招き、GNPと消費そのものの減少で、国力そのものを維持いていく上で危惧を

唱える学者もいる。


政府は少子化の対策として、企業に、男女を問わず従業員が育児休暇を計画的に

取得できるように義務づけた。

また、独身者や1人っ子の家庭には税負担が重く、3人以上の子供のある家庭には

税法上の優遇策を受けられるよう検討しているらしい。

年金問題については、2010年より施行された日本型401K(確定拠出型の企業年金)

で個人と企業が毎月掛け金を拠出して積立、加入者が退職後に取り崩すまで掛金と

積立金には税金がかからない優遇税制が与えられる方式が定着していた。


また、年金制度の改正に伴ってそれまでの制度で定年を迎えた人の年金には、

消費税が5%から段階的に20%まで増加して、その費用を捻出してきたので、

現在では、問題はなくなっていた。


丈司は、Y大学の社会学科の4年生である。

そろそろ卒論を纏めなければならない時期にきていた。丈司の選んだテーマは、

「地球環境と人類」である。

そう言う意味で今朝のニュースを興味深く聞いていた。

2 ホップマンテニスキャンプ(1)
ホップマンテニスキャンプには、矢代達也と一緒に行くことになっていた。

彼とは高校・大学とテニス生活を含めて一緒に過ごしてきた無二の親友である。

顔はモンゴリアン系にネアンデルタの血を少し混ぜ合わせたような顔で、お世辞にもハンサム
とは言い難い。

その代わりと言うのも、おかしいが頗る性格が良い。

総てのことに前向きで、思いやりがあり、人を褒めることがあっても悪口を言うことを
聞いたことがない。

若し、野球選手になっていたらキャッチャーが適任であると思う。

ピッチャーは、「俺がいないと、世界の夜も日も明けない」と言うようなワンマンで、
ずば抜けた力と技の持ち主の人が多い。

しかし、矢代は謙虚で差し出がましいところがなく、どんな苦境に遭遇しても動じるところが
ない。常に周囲の人を和ませる、落ち着いた雰囲気が先天的に具わっていた。

皆のやる気を引き出すことに長けていた。

人望が厚く、福岡のW高校でも東京のY大学の今も、テニス部のキャップテンをしている。

丈司が、今回のホップマンテニスキャンプ話を打ち明けた時も、直ぐに賛成してくれて
航空券手配からコンドミニアムの予約まで進んでやってくれた。

偉そうなことを言っていても自分ひとりでは何も出来ない丈司と比べて性格の良さは人類の
財産と言ってよい人間である。

フロリダ州のタンパでの宿泊代や生活していく上で、必要不可欠なレンターカーの費用など
経費面でも二人で行けば割勘できるメリットがある。

それ以上に矢代がいるだけでトレーニング生活を楽しく送ることが出来る。


ホップマンテニスキャンプを開いたのは、ハリーポップマン氏で、彼は1960年代当時
オーストラリアのデビスカップの監督であった。

当時レーバー・ニューカム・ローチなどの選手を育て上げてオーストラリアのテニス界の
黄金時代を築き上げた人である。

その後、オーストラリアを離れてアメリカ本土に渡りテニスキャンプを開きゴメス・ビラスらの
トッププロをも育て上げた。

1985年に逝去されたが、後任者が彼の意思を受け継いでいるので、その後もサンプラス・
クーリエ・カプリアティなど、現在ではJ・ウイルソン(米)やA・ソレム(スエーデン)らの世界の
トッププロが集まることでも有名なキャンプ地となっている。

日本人では、ATPシングルス・ランキングで過去最高の57位にランクされこともある
松岡修造氏も若い頃は、ここでトレーニングしたこともあるそうだ。

今では松岡さんは、日本のテニス界でのジュニアの育成からはリタイアーされているが、
丈司が小学校に入学して間もない頃、耕一に連れられて松岡修造氏が期待のジュニアーを
教育しているところを一度見せてもらったことがあった。

「ダメダメ! 君の今の脚の動きはなんだ!」

「君より弱い選手であれば、それでも勝てるかもしれないが、少し上の実力のある選手に
当たったら、たちまち君の欠点を見抜かれて、手も足もでなくなるヨ!」
「世界のトップクラスの選手でも、手抜きしないで君の十倍以上は脚が動いているヨ!」

「君は、天性の素晴らしい素質があることは、私も君のお母さんも良く知っている!」

「しかし、私も、君のお母さんも、君のぶざまな姿を見たくない!」

「常に一球一球に集中して、基本に忠実に足腰を動かしていないと世界のトップクラスの
選手には、なれないヨ!」

その情熱は、只者ではない熱意が感じられたことを子供心に良く覚えていた。

丈司も、その後おおきくなって、それを他山の石として基本に忠実にトレーニングにしようと
心に決めたものであった。


フロリダ州のタンパ国際空港に行くには、日本の飛行機はアメリカとの航空協定の
関係からか?直行便はない。

たとえアメリカの航空機を利用してもニューヨークかアトランタかヒューストンで乗り継ぎを
しなくてはならない。

出発の日、夏川亜紀がわざわざ成田空港まで見送りに来てくれた。

亜紀は、同じ大学の文学部の一年生である。

丈司のフアンでテニス部の所属ではないが、対外試合の時にはよく応援に来てくれていた。

最初は友達の由原真子を無理やり誘って一緒にきていたが、最近は一人で来ることが
多くなっていた。

お母さんに似て頭も気立ても良く、それに美人で微笑んだとき、唇の両端がモナリザのように
少し上がっていて、その終端で頬が、えくぼのように少し窪んでいてとても可愛い。

「忙しいのだからわざわざ見送りに来なくても良かったのに」と丈司は口では言ったが、
心の中では嬉しかった。

成田空港の搭乗手続きのカウンターに着いた時、既に矢代は来ていた。

搭乗手続きがおわって時計を見たらまだ11時30分であった。

少し時間があるのでラウンジで、まだ早いが軽食を取ることにした。

飛行機が飛び立つ滑走路に面したラウンジに行った。

亜紀は、明太スパゲッティを頼んだ。

丈司は、暫く日本を離れるので日本食を取ろうかと迷った末に、明太スパゲッティを頼んだ。

矢代は、にぎり寿司を頼んだ。

注文の品が揃うと、改めて選択を誤ったような気がしていた。

3分に1機の割合で飛行機が飛び立って行く。

世界は、広いようで狭いのだ。ここからは、世界各国の主要都市に行くことができるのだ!

「タンパって暖かくて綺麗なところなのでしょう?」

「私も付いて行きたいナ! でも、大学の授業があるから……」と亜紀が言った。

食事を終えてコーヒーを飲んでいるうちに時間がきたので、出国ロビーに向かった。

「見送りありがとう」と言ってロビーに入って行った。

小さく手を振ながら「お気をつけて、お土産お願いネ!」と亜紀が笑顔で頼んだ。

少し寂しい気がした。

亜紀のお母さんは亜紀が17歳の時に亡くなったことや伯父の耕一と昔お付き合いをしてい
悲しい別れがあったことなど風の便りで聞いていたので知っていた。

 
今回の移動は、将来のフランス大会を睨んでと言うのも気が早すぎるが、移動手段の一つとして
少し費用が嵩むが、行きだけはコンコルドを使用することにしていた。

コンコルドは、英仏の航空会社が社運を賭けて1970年代に開発した超音速旅客機である。

就航当時、パリとニューヨーク間を3時間45分で飛んだため、当初は政治家の他、実業家や
芸能人などがよく利用していた。

しかし、1973年と79年に二度にわたる石油危機のとき、燃費が悪く不採算で、また、
成層圏を飛ぶため成層圏を排ガスで汚すこと、音速を超えるとき大きな音が数㎞離れた
地上まで、花火の十号玉が破裂するような「ドカーン」と言うものすごい音が響くため、
当時は色々な環境の問題が持ち上がっていた。

追い討ちをかけるように2000年には114人を乗せたエールフランス機が墜落炎上事故を
起こし、致命的な打撃をうけてしまった。
2003年には、撤収を余儀なくされた。

しかし、現在では、その欠点の燃費は高性能エンジンに、またボディーは軽量で強靭な
炭素繊維に改良され、定員も限定の百人乗りに小型にしたので、ビジネスマン等が多く利用
できるようになって就航を再開していた。

ほとんどの航空機が千人乗りのように効率アップを目指し大型化するのに対し、小回りの
利く小型にして利用度を上げる二極化政策であった。

午後1時丁度に成田を離陸して、音速を破る時の「ドカーン」言う音もなく直ぐに成層圏に
入った。

普段乗りなれた通常のジェット旅客機から見ていた空は真っ青であったが、ここでは黒っぽい
濃紺色であった。

地上15000~18000メートルの成層圏では、空気も希薄で水蒸気や埃も少ないために
太陽光の乱反射が起こらないためであろう、一種のイノベーターの気分で優越感に
浸っていた。

空気が希薄ため定常状態の飛行に入ると空気抵抗が極めて小さくなり揺れは全く
感じられなく快適そのもののクルージングであった。

途中、軽食を済ませプラズマテレビのニュースを見て、微睡していると、あっという間に
5時間は過ぎてニューヨーク ジョン・F・ケネディ空港に到着した。

ニューヨークでは、トランジットのためコンチネンタル航空に乗り換えなければならない。

都合よく待合せは、約50分であった。

この季節、寒さを避けて常夏のフロリダ行きは人気があった。

特にマイアミ行きは大変混雑していた。

しかし、我々のタンパ行きの飛行機は、混雑はしているが、幾分の余裕があった。
トランジットの搭乗手続きをして、飛行機に乗り込んだ。

改良型のコンコルドのフライトが頗る快適であったことと乗り継ぎの時間も短かったので
疲れはさほど感じなかった。

国際線ではあるが通常のジェット旅客機は、成層圏を飛行するコンコルドに比べて
細かい揺れがよりひどく感じられた。

アメリカ国内の移動であるが時間的には東京・ニューヨーク間と左程変わらない所要時間である。

朝十時にタンパに到着した。
2 ホップマンテニスキャンプ(2)
朝10時にタンパに到着した。

入国手続きをして税関の検査を受けて外に出た。

暖かい。いたる所にヤシやパームツリーそれにフェニックスがあり、さすが南国である。

すごく眠いが、このまま起き続けていてアメリカ時間の夜になって寝ると時差ぼけが
軽減できることを丈司は経験上、よく認識していた。

これから1ヵ月滞在する上で、必要不可欠のレンターカーを先ず借りることにした。
日本で考えているような費用はかからなかった。

国際免許を取得してきたので手続きは、いたって簡単に済んだ。

といっても、総て矢代が手配してくれたのである。

日本が真冬の季節でもここでは日中は、摂氏20度を下ることはないのでとても暖かい。

空港の前の589号線を南下して左に曲がり275号線をタンパ市内に向かう。

タンパ市内を素通りして、そのまま東に突っ切っていくと国道4号線に分岐している。

国道4号線に入りディズニーワールドやユニバーサルスタジオのあるオーランドの方向に
向かって約20分走るとヒルズボローに着く。

大型のサドルブルックというリゾート内にホップマンテニスキャンプはあった。

4年前の高校生の時に来た時とちっとも変わりはない。

ここの良いところは、グラス(芝)、アンツーカ、クレー、ハードと4種類のコートが完備されて
おり4大タイトルを視野に入れたトレーニングが出来ることである。

因みに、4大タイトルとは、勿論、全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン、全米オープン
のことである。

全豪オープンは、毎年1月に開催されており、会場のメルボルン・パークには、屋外・屋内
あわせて26のコートがある。

コートは、「リバウンド・エース」と呼ばれるハードコートになっている。

全仏オープンは、フランスの首都パリの名所「ブローニュの森」の隣にあるローラン・
ギャロス・スタジアムで、5月末から6月初めにかけて開催される。

コートは、クレー(赤土=レンガの粉)コートが使用される。

ウィンブルドンは、全英オープンと呼ばれることもある。

この大会いは、4大会中で最も古い歴史を持ち、唯一芝生のコートで行われる。

最後の全米オープンは、アメリカ・ニューヨーク市郊外のフラッシング・メドウで毎年8月の
最終月曜日から2週間の日程で行われ、コートサーフェースは、当初芝であったが、
後年クレーに代わり、更に現在はハードコートに変更されている。


ホップマンテニスキャンプはまた、世界のトップクラスの人もやって来るので、その洗練された
プレーを見ることが出来るし、ごく稀なことではあるが、プレーの相手をしてくれる場合も
あるので楽しみである。

ポップマンキャンプのレッスンは、受講者のレベルに応じてその人にあったドリルが
準備されている。

個々人が持って生まれた素質を最大限に引き出すトレーニングである。

丈司と矢代は、二人一組でトップクラスのコーチを選んだ。

ATP(Association of Tennis Professionals)ツアーを経験したことのある選手がリタイヤー
してコーチとなっているので確りしたレッスンをしてくれる。

土曜・日曜が休みで週5日のレッスンを受ける。

毎朝8時20分にコートに集合して準備体操を終えて、その日の課題をコーチが説明して
デモンストレーションを行なう。

9時~11時は、実地レッスンでミッチリ扱かれる。

11時~12時45分は、休憩と昼食。

12時45分に集合してコーチの簡単な説明の後、午後1時~3時また実地レッスンでまた
扱かれる。

コーチは50歳を既に過ぎているが、若い受講生と同じような動きをしても息の上がった様子を
見せないのは流石である。

午後3時以降は、フリータイムで自由にコートを使ってもOKである。

日に4時間はオンコートでのドリルがある。

30種類以上のドリルが準備されている。

コートは4種類のサーフェースで行なわれて、それが終わるとビデオチェックなどの机上の
講義が行なわれる。

レッスンの内容は、幼児の英才教育からプロまで多岐にわたっているが、プロでも基本を
重要視していて、その積み重ねによる反復練習を中心に汗を流している。

スタミナとスピード・機敏性と耐久力の追求を怠らない。


初日は、芝のコートでのトレーニングであった。

緑が鮮やかで美しい。

準備体操が終わってコーチの説明で、芝はゴルフのグリーンと同様に5㎜の長さに
カットされているそうである。

注意事項は、「夏の日などは一日に2~3㎜成長するので時間帯によってはバウンドが
変わるので、その点についても確り確認するように」とのことであった。

ドリルは、丈司がバックライン右に立ち、ネット際からコーチが、逆のコーナーに球を出す。

最大スピードで追いかけてレシーブし、その足で右ネット際に落された球を最大スピードで
追いかけてレシーブする。

このようなドリル5セットを3回づつ丈司と矢代と交互に行なうもので瞬発力と持久性の訓練で
あった。

机上での今日のコーチは、足の運び方とラケットの角度・打つポイントについてビデオを
見ながら一つ一つ指摘した。


次の週になって、コートがクレーに変わった。

芝とは違い日の光のはね返しが強く感じられた。

ドリルは、ボレーとスマッシュの練習で相手はコーチと矢代が務めた。

丈司がバックラインサーブを打ち同時にネットをとりボレー若しくはスマッシュで返す。

相手が二人なのでリターンされた球が直ぐに返ってくる。

フットワーク効かせて追いかけてレシーブする。

このようなドリル3セットを5回行なう。

5回行なった段階で丈司と矢代と交互する。

矢代がバックラインサーブを打ち同時にネットに出てくるボレーされた球が返ってくる、
丈司はその球をどの方向にどの高さで打つか瞬時に判断して攻撃に変えなければならない。

但し、あくまで矢代のトレーニングがメインである。

予期せぬ事態に対する判断力と瞬発力・持久性の訓練であった。


机上での今日のコーチの説明は、ビデオを見ながら返球された球の方向とネットを取る位置・
足の運び方などを指摘された。

なるほどと思われる指摘であった。

また、次の日は、一般的な項目の食事の摂り方の説明があった。

ツアーの試合になると4時間になんなんとする試合になる場合があるので、試合の30分前に
炭水化物の食事とオレンジジュースを飲んでおくと腹持ちがよく長時間持続したエネルギーを
生み出してくれるそうである。

科学的に実証されていることだそうである。

丈司は、日本食が好きなので、いつも試合にはおにぎり3個とオレンジジュースを持って
いこうと決心した。

一般的に日本の若者が洋食ハンバーガーやピザに憧れるのと反対に、欧米人の間では
本来の日本の食事が低カロリー食として見直されているのには皮肉な感じがした。

また、昔は練習中には、水を飲まない方がスタミナを持続するとの間違った考え方が
あったが、試合中は、汗と塩分が放出されるので、スポーツドリンクで水分の補給を行い
持久力の維持を促すようにとの説明があった。

午後3時からのフリータイムで自由にコートを使ってもよいので毎日少なくとも2時間は矢代と
ストロークの練習をした。

時には、隣のクラスのメンバーと練習試合をして楽しんだ。
2 ホップマンテニスキャンプ(3)
折角、ポップマンキャンプに来たのだから、みっちりトレーニングに励む積りであったが
二週間もすると、マンネリ化して少しだらけてきた。

矢代と相談して、一日だけは観光に割くことにした。

近くのディズニーワールドかユニバーサルスタジオにしようかと考えたが、どちらも同様のもの
は日本でも見ることが出来る。

それで、少し足を伸ばして、日本では見ることが出来ないケープ・カナベラルにある、
ケネディー宇宙センターに行くことにした。

翌日、土曜日なので朝6時に起きて早速、国道4号線を東に向かった。
オーランドを通り過ぎて、528号線、通称 Bee Line 日本語に訳すると蜜蜂街道とでも
呼ばれるのであろう、何ヵ所の料金所を除くと、ほぼ真っ直ぐな長い長い有料道路である。

日本の高速道路で採用しているシヌソイド曲線の道のように、眠気を覚ますための
工夫がない。真っ直ぐな道を、ただただ東に向かう。

407号に入り北東に向かう、暫く走って右に折れて、405号に入って更に東に向かう。

途中、インディアン河と呼ばれる広い大きな河を渡った。

河と言う名が付いているが、海が入り組んできているのではないか思われる大きな河である。

暫くすると遠くに宇宙センター大きな建物が、小さいが見えてきた。

朝、サドルブルックにあるコンドミミアムを出て、1時間半ほど走ってようやく
ジョン・F・ケネディー宇宙センター到着した。

よくテレビで見ている、あの風景が目に飛び込んできた。

総てのものが桁違いに大きい。ここは、世界最大の宇宙センターである。

湖を含めて、面積だけでも34000ヘクタールもあるらしい。


余談になるが、この基地が、ジョン・F・ケネディー宇宙センター呼ばれるようになった経緯を
話しておきましょう。

1960年、ケネディー議員は民主党リベラル派の代表としてニューフロンティアをスローガンに
アメリカ合衆国の大統領選挙に立ち、最年少で第35代大統領になった。

世界は二大大国の東西冷戦時代であった。

それまで世界の盟主と自負していたアメリカは、人工衛星等の宇宙開発ではソ連に
遅れ劣り後塵を拝していた。

大統領就任後も1961年には、ソ連はガガーリン少佐の乗った有人宇宙衛星成功した。

また、1962年には、キューバにソ連のミサイル基地が設置されるという事態が持ち上がった。

ミサイル基地が設置されたことを知ったアメリカは、咽喉もとに突きつけられた刃物を
除去するために、キューバに海上封鎖することを通告した。

まさに核戦争の一触即発の状況にあった。

そんな時代に大統領就任したケネディーは、アメリカ人の名誉と誇り、それに希望を
取り戻すために、「1960年代に人を月に!」と言うスローガンを掲げた。

それまで人工衛星も充分に打ち上げた実績のなかったアメリカは、この十年間で月に人を
安全に旅行させて、月面に足跡を標し、無事帰還させると言う計画であった。

成功の根拠も自信も充分でなかったと思われる。

しかし、結果として1969年アームストロング船長以下4人の飛行士が、月の「静かの海」に
降り立ち帰還すると言う快挙を成し遂げるのである。

1963年11月22日、不幸にして大統領はテキサス州ダラスで暗殺されるのであるが、
ケネディー大統領の功績を讃えて、それまでケープカナベラルNASA航空宇宙局と
呼ばれていた基地をジョン・F・ケネディー宇宙センターと命名したのである。

人々に夢と希望を与える政治家として、評価されたからであった。


話は、元に戻るが、丈司の子供の頃は、母に連れられて世田谷の実家によく行っていた。

伯父の耕一の話を聞くのが好きであった。

テニスの世界選手権の話や宇宙の話であった。

中でもしし座流星群の話は、真夜中の暗い空に次から次へと流れていく流星の模様や、
それを計算で割り出したアッシャー博士の話や、彼が提唱した素晴らし流星予言の話など
であった。

更に、その2年後に起った火星大接近の話などは、とても不思議で神秘的であった。

2003年8月27日、地球と火星の距離は5576万㎞まで大接近した。

これほど接近するのは、紀元前5万7537年以来のことであったらしい・・・・・

マイナス2・9等星で夜空では金星の次に明るく、紅く大きく輝いていた火星の話を身じろぎも
しないで聞いていた。

自分は、まだ5歳である。一年がこんなに長く感じられるのに、宇宙には何万年、何億年もの
気の遠くなるような歴史がある。

その宇宙が、どんなに広く想像の限りではないこと、そして地球にいて、行ったこともない
のに、そのようなことがどうして詳しく分かるのか? 

人間の偉大さに驚き、心をときめかせたものであった。


テニスのキャンプために常夏のフロリダに来て、こんな形で宇宙の夢を実現できるなど
考えてもいなかった。入場料TAX込みで30ドルを払って中に入る。

中央のエントランスを入ると正面にある見学者向けのシャトルバスのチケット・パビリオンが
あり、左手にはスペースポート・シアターがある。その向こうは、歴代のロケットが立ち並ぶ
ロケット・ガーデンになっている。

右手には、レストランやランチパッドがあり、その右は、シャトルバスの発着場である。

先ず、チケット・パビリオンに行く。

チケット・パビリオンの左横は、バーチァル・リアリティー(仮想現実)の建屋で、見学者が
火星に行く体験などができる模擬空間で、その左は子供向けのプレイ・ドームとなっている。

行き先に応じて、各々のバスは十五分置きに出ていた。

逸る心を抑えながら、発射台見学コースの二階建てバスに乗る。

見晴らしの良い二階に席を取る。バスは、最初にIMAXシアターに行った。

ここは、宇宙船のコントロールセンターを装った造りなっており、大画面に宇宙開発の歴史と
現状を映像で紹介してくれた。

ロケット発射の場面では、大きな画面いっぱいに迫力ある映像が写し出されて大きな音が
胸にまで響き、近くにあるガラス窓がビリビリと振動して臨場感溢れる紹介であった。

それに火星探査機からのリアルタイムでの映像が、平面画面の他に、ホログラムによる
立体映像が映し出されて岩石や土が手に取るように見ることができた。


火星探検などSF小説であれば簡単に実現できることなのだが、現実はそう甘くない。

火星と地球の相互の動きと位置関係を見計らって地球を飛び出して約7ヵ月掛けて火星に
到着して、観測した後、また時を見計らって火星飛び発って同様の時間を掛けて地球に
戻ってくる。そのための技術は、既に出来上がっていたが、1年以上の長い間、飛行士の
精神と健康を守る安全保障が充分に確立できていなかった。

長い間の下積を乗り越えて、一昨年の2035年になって、ようやく火星に足跡を残すことが
できたのである。

1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見して、1969年にアームストロング船長が月面に
立ち、2035年にアンダースン船長が火星に降り立ったのである。

歴史的にも特筆すべき人類の快挙である。惑星間旅行の先駆けになっていた。


次にバスが着いた所は、遠く正面にLC39AとLC39Bの発射台が望めるビルであった。

外観は、発射台を模っていて、湖越し遥か遠くに発射台が立ち並んでいた。

発射台のその向こうが大西洋になっている。

幾分、水平線が丸くなっているような気がした。

とにかく総てのものが、馬鹿でかくて、それに広くて度肝を抜かれるほど壮大であった。

でも、自然との調和がとれていて自然を破壊しているような感じは全くしない。

LC39Aの手前には、ロボット組立工場(VAB)の大きな建物が立っており、LC39Bの
左側手前には、アポロ・サターンVセンターのビルがある。

更にその左側には、LC40からLC45までの発射台が立ち並んでいる。


次にバスは、その壮大な風景を見ながら発射台の方に向かった。

最初は、ロケット組立工場(VAB)に着いた。

完成当時世界第三位の大きな建物であったらしい。

何処の建物が一位で、何処が二位かは不明であるが大きい。

なんと、高さが160m・幅が158m・奥行きが218mもあるそうだ。

バスの着いたところには、二階建になっていて、発射台が一台停まっていた。

発射台が一台だけでも、高さ7・6m長さ50m幅46mで重量が3700トンもあるらしい。

それにスペースシャトルを積むと5000トンにもなる。

一番近いLC39A発射台でも5500mの距離の砂利道があり、それをクローラーと
よばれている2700トンもあるトレーラーで、数時間掛けて牽引して行くそうである。

ここの工場では、スペースシャトルの燃料タンクやブースターをドッキングしていた。


次にバスは、サターン・ロケットVセンターに行った。

実物のエンジンやサターン・ロケットが分解されて展示されていた。

現在では、火星とか月に行く場合は、飛行士はシャトルで宇宙ステーションまで行き、
そこから別の宇宙船に乗り換えていた。

以前のサターン・ロケットように地上から打ち上げてそのまま宇宙に行く方式は効率上、
採用していない。


第一次宇宙ステーション計画は、1998年にアメリカ・日本・ロシア・カナダ、それに
ヨーロッパ十五ヵ国が協力して建設が始まった。

2008年には完成して、当時七人の飛行士が常駐していた。

その計画は引き続き延長されて、現在では第三次計画を完了する段階になっている。

科学者やエンジニアを含めて250人もの人が拡大整備された宇宙ステーションに常駐して
いる。

そのために、スペースシャトルは、ソ連のバイコノール基地とアメリカ側は、ここケネディー
宇宙センターから毎月一回の割合で交互に打ち上げている。

それで、ここケネディー宇宙センターにはLC39からLC45までの八基の発射台があって
左の方遠くにまで立ち並んでいる。


展示されているサターン・ロケットの大きな噴射ノズル、司令船のコックピトなどいつまで
見ていても飽きない。時計を見たら午後の1時半になっていた。

バスで、最初のチケット・パビリオンのところまで戻って、お腹がすいていることに気づき、
ランチパッドに行ってハンバーガーとコーヒーの簡単な昼食を摂った。

昼食もそこそこに、ロケットガーデンに行き往年のロケットを見たり、体験コーナーでは、
無重力状態や火星行きの模擬体験を楽しんだ。

時計を見たら午後の5時になっていた。もうそろそろ帰らなければならない時刻である。

最後にスペースショップに行った。

月から見た地球の写真やサファイヤのように輝いている地球のポスターや絵葉書。

それにTシャツや飛行士の彫像・マグカップ・ボールペン・プラモデル・野球帽子や実際に
使用している宇宙食、色んなグッズがある。

誰だったか忘れたがアポロの飛行士で地球への帰り道に見た地球の感想を

「地球は、荒涼とした宇宙の中のオアシスである!」と表現した言葉を思い出した。


亜紀にお土産を買わなければならないことを思い出して、アンダースン船長が火星に
降り立った絵柄のついたスペース・チョコレートと宇宙から見たサファイヤのように
輝いている地球のポスターを買った。

午後の7時になってようやく帰途に着いた。大変に疲れていたが心が洗われて、心機一転
することができた。


次の週からのテニスのトレーニングは、心の満足とゆとりにより集中することができた。

「よく学べ!よく遊べ!」の諺があるように、たった一日のリクレーションがテニスの
トレーニングをより充実したものにしてくれた。

1ヵ月のトレーニングはアット言う間に終わった。

丈司は、筋力と持久性だけでなく論理的な知識も身につき自分でもひと回り
大きくなったような感じがした。
3 耕一の生い立ち
北村耕一の父、亮の実家は神戸で貿易商を営んでいた。

亮は、そこの長男として生まれた。

その当時の日本は、第二次世界大戦の真っ最中であった。

その年の八月、日本の敗戦で終戦を迎えた。

戦後の混乱期に育った亮は、敗戦の貧しい生活の中から、これからの日本は「工業立国を
目指さなければ」との信念がふつふつと心の中に芽生えてきた。

地元の高校を卒業すると最先端の技術を身につけるために、東京に出てT大学の
電気工学科を目指した。

偶々実家は裕福というほどではなかったが、「長男のためなら」と言うことで学費を含めて
東京での下宿代や生活費を工面して快く出してくれた。
亮は持ち前の根性と努力で入学試験をパスして努力の末、卒業した。

卒業すると三鷹にある無線機関係の会社の大和電子に就職して技術開発を担当した。

35歳になったとき、それまでの技術をベースに、購入で取引のあった海外メーカーの
半導体製品を中心とした販売会社を設立した。

扱う製品は、小さい会社であっても日本にはない世界各国の優秀でユニークな技術を
持った製品を主体としていた。

OPアンプや工業計測用・広帯域通信用のアナログ製品を日本の各社に紹介し販売する
ための独立した会社であった。

資本金は、僅か3百万円で、それを元手に西新宿に販売会社を設立した。

薄利多売の競争はせずユニークな技術と品質で競争することをモットーとした会社であった。

名前は「ニュートロニックス」とつけた。

最初は、たった5人の仲間からスタートしたが、おりしも日本経済の高度成長の波に乗り、
順調に成長していった。

1980年代以降、日本の産業の発展は、目覚しいものがあり「ニュートロニックス」も設立した
当初から順調に発展していった。

2000年を迎えた頃には年商も250億円に達して資本金も10億円になり、支店も東京の他、
大阪・福岡・名古屋・仙台に営業拠点を開き従業員も250名にまでなっていた。

息子の耕一が大きくなったらきっと自分の事業を継いでくれるものと考えていたが、しかし、
「親の心、子知らず」で父の期待に反し、中学を卒業する頃になった時、テニスをしたいと
言い出した。

耕一は、子供の頃から背も高く運動神経がずば抜けていた。

また、彼の意志が非常に固たかったので事業を継がせることはすぐに諦めた。

自分も父の貿易商を継がなかったではないか。

亮は、耕一の意志を尊重して福岡にある名門のW高校にテニス留学をすることを認めて
支援した。耕一の母の実家が佐賀にあったことも幸いしていた。


そのしわ寄せが妹の尚子に託された。

父の願いは、「いい婿をとって自分の事業の後を継がせよう」と考えた。

亮のその夢は、まんまとあたった。

お正月、年始の挨拶に来た「ニュートロニックス」の若手の有望株である技術主任の
平井拓也がお茶を持ってきた尚子を見て一目惚れしてしまった。

尚子の方もまんざらでもない様子であり、直ぐにお付合いが始まり、話がトントンと進んで
翌年の春めでたくゴールインして、4年後丈司が生まれた。

父は、行く末は「ニュートロニックスの事業は、娘婿の拓也に託そう!」と考えた。


耕一の方も順調で、テニス留学したW高校での活躍は目覚ましく耕一と矢代を中心とした
チームは日本高校選抜大会で運良く男女共にアベック優勝してしまった。

卒業してY大学に進んだが、ここでも在籍四年間のうち二度も大学対抗で優勝し日本での
若手の第一人者になっていた。
4 耕一の悲しい思い出(1)
北村耕一は、大学生時代テニス部の三年後輩の藤田翔子となぜか気が合った。

一緒にいると心の和む思いがして、一緒に行動することが多かった。

二人は、いずれ結婚するものと、自他ともに認める人もうらやむ仲であった。

翔子は、何事にも控えめで口数の少ない女性であった。

精神的にも粘り強いところがあり、人の嫌がることでも気軽に引受けて最後まで遣り遂げる
だけの根気の良さと精神的な強さがあった。 

それでいて愚痴を並べることは全くなく、明るく常に笑顔を絶やさない人柄だった。

耕一は、大学のインター杯で個人・団体ともに優勝を治めて、大学を卒業するとすぐテニスの
プロプレーヤーになった。スポーツ用品メーカーの A社と専属契約をした。

24歳になった時、全日本選手権を制し世界の四大タイトルの試合に出場が望める位置に
のし上がっていた。


2001年の11月のある日、33年に一度の宇宙からの贈り物であるしし座流星群が観られると
いうことで前もっての約束どおり真夜中の一時に翔子家まで誘いに行き、近くの高等学校の
グランドに行ったことがあった。

しし座流星群とは、オーストリアだったか、どこの国の人か定かではないが、
デビッド・アシャーという博士が計算から提唱したもので流星群の正体は、1866年の
ハレーすい星が当時残した塵である。

偶々その年、そのすい星の通った軌跡を地球が通過するため、その塵が地球の引力に
引きつけられて大気圏に突入して燃え落ちる現象で、悠久の宇宙が次元を超えて私たちに
くれるロマンティックな贈り物であった。

テロだの、殺人だの、詐欺・嫉妬だのと騒がしい俗社会の人間の行動が小さくて、ばかばかしく
感じられた。

グランドには、既に高校生のグループや親子・若いカップルがあちこちに思い思いの位置を
陣取って、大きく流れ落ちて来る星の流れが現れるたびに歓声をあげていた。

こんなに多くの星が、次々と降り注いでくる宇宙の素晴らしい夜の祭典を見たことは初めて
なので、寒さも我慢し首が痛くなるも忘れて、ただ立つくし感激と感動をもって眺めていた。

暫くして、少し疲れを覚えたので斜面の芝生の上で持ってきた座布団を敷き、草を枕に
二人肩を並べて寝そべって眺めることにした。

立っている時より視野が開けて、ゆったりと眺めることが出来た。

翔子は何も言わなかったが心のどこかで、こんなロマンティックな日に「プロポーズを
してくれたら良いのにな!」と期待していたかもしれない。

「星の流れに願いをこめる」という話があるが、その主人公になることを祈っていたかも
しれない。

しかし、耕一は、次々と流れていく星をただ眺めているだけであった。

冷たくなった、お互いの手を握りあっているだけで何事もなかった。

耕一は、一体何を考えていたのだろうか。

翔子とただ一緒にいることだけで楽しく、充分に満足であった。

        ☆

その当時、テニスの世界では、アンドレ・アガシは全豪選手権を制し、過去のタイトルを
含めると世界四大タイトルの全てを制覇したことになり五人目のグランドスラムを達成した男に
なっていた。

しかし、スランプに喘いだ時もあった。

1990年代の前半は絶好調で、ウインブルドン・全米・全欧オープンに勝ち全盛と言われた時、
ハリウッド女優のブルック・シールズと四年間の交際を経て結婚した。

二人の結婚は誰もがうらやむ結婚であった。

結婚後アガシは、自分の郷里であるラスベガスに住んでいたが、シールズは女優業を
続けたためロサンゼルスに住んでいた。
そのため変則的な別居の新婚生活が始まった。

それでも、アガシは家庭を大切に妻への愛情を注ぎ続けた。

その結果、テニスが犠牲となり、結婚前後の数年間はエントリーする試合の数も少なく、
出場しても一回戦で敗退することが多くなっていた。

世界ランキングは、徐々に落ちてATP(男子プロテニス協会)141位にまで下ってしまった。

当然、収入も減少していった。

でも、それだけ真剣にブルック・シールズ愛していたのである。

しかし、そんな生活は長くは続かず、破局を迎え、やむなくテニスに集中するため、涙を
のんで離婚した。

生活のスタイルを変え、暫くして二度目の結婚は、同じスポーツのテニス社会で活躍した
シュテフィー・グラフを選んだ。

グラフは、ツアーでの苦労や悩み・苦しみを知り尽くしていたので。アガシは、テニスに
打ち込み、本来の持ち味の研ぎ澄まされた集中力と類まれな反射神経を武器にトップスター
の座に返り咲くことができたのある。

        ☆

耕一は、翔子とただ一緒にいることだけで充分に満足感を覚えていた。喜びを感じていた。
若かったので翔子の気持ちを察し、思いやるだけの余裕がなかった。

一瞬アガシの記事の記憶が頭を過ぎったのかもしれない。

結婚して、今の自分の生活スタイルが変わることを心のどこかで恐れ避けていたのかも
知れない。
 
翔子が30歳になった時、心配していた両親は、耕一との関係を知らないわけでは
なかったが、親戚の勧めもあって翔子に見合いを勧めた。

相手は、一流商社のエリート課長である。

翔子は、そんなつもりは全くなく嫌であったが、両親に気を使い無碍に断り続けることも
出来なかったので渋々了承してしまった。

お見合いの場所は、汐留に新しく出来たばかりのカレッタ汐留で逢うことを了承した。

エレベータで46Fまで一挙に上がった。

レインボーブリッジからお台場の副都心が大きく見渡せる美しい展望レストランであった。

レストランの窓際のテーブルに座ると眼下に浜離宮恩賜庭園が広がっていた。

寛永の頃までは徳川将軍の鷹狩り場のひとつで、都内では唯一の海水を引いた潮入池が
あり、その池を中心とする回遊式庭園で、江戸時代を代表する大名庭園である。


いつだったか翔子は、この庭園に来たことがあった。

耕一とのデートで浅草寺にお参りをして、浅草の桟橋から遊覧船に乗って、隅田川を下り
勝鬨橋を潜って東京湾に出て浜離宮の桟橋に着いた。

初夏の日差しのやわらかい爽やかな日和であった。

庭園を散策して振り返った時の耕一の笑顔を思い出した。

日焼けして背も高く歯並びの良い白い歯がとても清潔感があったことを今でもよく覚えている。


水路を挟んで左側は、築地の大きな市場へと続いていた。

前方正面は、お台場で右方はレインボーブリッジがすぐ近くにみえて、その向こうに東京湾が
大きく広がっていた。

このような大きな景色を見ていると、心まで広くなるような気がしていた。
4 耕一の悲しい思い出(2)

お見合いの相手の名は、夏川陽介という方でブルーのスーツに身を固めた根っからの

サラリーマンであった。

日に焼けしていて色は少し黒いが気持ちのサッパリした人のようであった。

夏川陽介は、一度の見合いで翔子を大変気に入り積極的にアプローチしてきた。

翔子は、全くそのつもりはなかったが、あるとき耕一の気を引くため、その話をしてみた。

耕一が激しく拒否してくれることを期待していた。 

しかし、困ったような顔を少し覗かせたものの期待していたほどの反応は何もなかった。

 
耕一は、何も言わないまま、その年の6月24日から開催されるウインブルドン選手権に

出場するためにロンドンに旅立ってしまった。

翔子は、言いあらわすことができないほど、とても寂しい気持ちになってしまって、

悲しくて涙が止らなかった。


一方、ウインブルドンに意気込んで行ったものの耕一は、日本の期待にも添わず善戦むなしく

一回戦で敗退して帰国した。

技術だけでなく体格の差と肉体的な筋力の違いによる迫力のある球とスピードの差を

思い知らされた。落胆し、失望のどん底の淵に陥って帰国した。


帰国した時、更に追い討ちをかける出来事が待っていた。

翔子は、結婚を決めてしまっていた。 既に秋の式の日取りまで決まっていた。

耕一という人は、心の優しい人であったが、翔子としては、身近にいる自分の希望や苦悩を、

耕一は全く理解してくれない人のように感じてしまった。

一向にはっきりしない優柔不断な煮え切らない態度に疲れ切ってしまった訳ではなかった。

その思いやりのなさが一生の伴侶としていくには、自信がもてなかった。

そういう意味で、夫としての選択を拒否したのかもしれない。


夏がやって来た。朝早くからの蝉の忙しない鳴き声が、一層 夏の暑さを際立たせていた。

今年の夏は、特に暑い。

耕一は、近頃テニスの練習にも倦怠感があり気持ちが乗っていなかった。

こんなことは、生まれて初めてのことであった。

今日も朝から心に落着きがなく、無性に翔子に会いたくなった。

結婚を前にした若い女性に、昔の恋人が会いに行くなど、そんな権利も義理もなかったが、

会いたかった。会う理由など何もなかった。

会って話しても心変わりなどする訳ではないことは、充分に分かりきっていた。

会うことで相手に迷惑がかかることもあるな!と想像がついていたが、ただ会いたかった。


思い切って、翔子に電話をした。

「もしもし、今日は? 北村です。お久しぶり、お元気ですか?…何している?…」

「今日、これから会えませんか?」

「これから恵比寿に行く処だけれど、婚約のお祝いでも差しあげようかと思って」と

心にもない理由をつけた。理由など何でも良かった。

翔子は、少し躊躇していたようであったが、

「これから?」時計でも見て、他の都合でも確認をしているのであろう。

暫くして、「いいわ、どこで会う?」と尋ね返した。

「恵比寿ガーデンにあるビアステーションで3時では如何ですか?」と耕一が言った。

「分かりました。じゃ3時ネ!」と翔子は、そう言って電話を切った。

学生の時から翔子は、ビールが好きで、コンパの時など稀に大ジョッキ2杯ぐらいなら

飲んだことがあった。

 
恵比寿に出て、お祝いにベージュ色の複雑な刺繍の施された小さなテーブルクロスを買った。

丁寧に包装してもらいご婚約祝いの熨斗に北村と書いてもらった。

恵比寿と言う駅名は、日本麦酒醸会社(サッポロビールの前身) が1889年にこの地で

ビールの生産をはじめ、始めた当時は苦労をしたが、暫くして海外のビールを抑えて日本での

トップの生産量を誇っていた。

えびすビールの人気が高く、その後、大都会に発展してからも一商品名が地名・駅名として

残った大変稀なケースである。


ビアレストランは、欧州風の造りで灯りがやや暗く、壁にランプ風の照明が点いていた。

約束の10分前に着き、壁際にある少し暗めのライトの下に席をとった。

何だか不倫をしているような気持ちで、そわそわして待っていた。

不倫する人は、相手に夫や妻がいることが分かっていても、自分の気持ちを抑えることが

できなくて、このようにして会うのだ! と後ろめたい暗い気持ちがしていた。

 
暫くして、入り口に翔子が現れた。

白いシルクのノースリーブのニットに、紺色の地にアルファベッドの白い文字の模様の入った、

麻のミディーのタイトスカートはいていた。

首にはシルバーのネックレスに三日月形をした珊瑚のペーズリーのペンダント。

左手の肘にはアンサンブルの上着と右手には山葡萄の蔓で編んだ籠の洒落たバッグを

提げていた。

栗毛色のセミロングの髪は、程よいウエーブがかかっていて、うしろ髪は、暑さを凌ぐためか

黒いリボンで束ねられていた。

久し振りに見る翔子は、スリムで背も高く、爽やかないでたちで一際人目を惹いた。

 
耕一が、右手を高く上げて振ると直ぐに気づきやってきた。

「お久しぶりです、お元気そうですネ!」と少し恥にかみながら翔子が言った。

「ええ…、翔子こそ、お元気そうで何よりです」耕一は微笑しながら言った。

「急な誘いで、ご迷惑でなかったですか?」

「少し痩せた? スリムになったような気がする!」

「いいえぇ、以前と変わりはないけれど」

「耕一さん、テニスの方は如何ですか?」

「この次の四大大会ではベスト8には、入ってくださいネ!」と少し間を置いて翔子が言った。

しかし、学生時代に付き合っていた頃のような会話に弾みがない。

どこか半歩距離を置いて話しているようで耕一は、少し寂しい気がした。

「もう、年かな! 壁にぶつかったようで一向に進歩がなくて困っています」と耕一が言って、

翔子の方を見た。

視線が合ったが、翔子は一瞬、瞬きをする様に伏せ目がちに目をそらした。

長い睫毛が小さく緩やかにカールしていた。 

ビールを少し飲んで頬がほの紅く、伏せ目気味の横顔が、愁いを含んでいて

とても綺麗であった。


「おめでとう!これお祝い」と言って耕一がテーブルクロスの入った包みを差し出した。

「ええ…、ありがとう」と翔子が言って、少し強ばった表情の微笑をした。

学生時代なら、直ぐに包みを開けて喜びを表現してくれたのに、包みは、そのままで

横の椅子の上に置いた。

馬鹿な話ではあるが、それでも耕一は、翔子と一緒にいることだけで楽しかった。

この時だけは、翔子を独占できていたから、心は満足感に浸っていた。

1960年頃に熱狂的に流行ったと言う、エルビス・プレスリーのロックンロールの中に

"I want you, I need you, I love you" と言う曲があった。

その曲の間奏でプレスリーの台詞が入るのですが、その一節はこの曲のテーマと

なっているように、


 I want you !

 I need you !

 I love you !

 

と言う情熱的なプロポーズの言葉がある。

日本人の「以心伝心」を基本とした精神、謙譲の美徳を慣習とする気質からは、

歯の浮くような言葉である。

しかし、女性は自分の好きな男性から、心の底から出てくるような情熱的な愛の告白を

密かに待っているのではないだろうか? 失敗することなど恐れずに。

耕一は年をとってから、そのように思うようになっていたが、この時の耕一は未だ若く、

本心とは反対のお祝いを贈るという行動をとってしまった。

翔子とは、一時間足らずで別れて、その時かぎりで以降は逢っていなかった。

 

あっという間に月日が過ぎて、11月5日がやって来た。

明け方まで激しく降り続いた雨も朝方にはすっかり上がり、澄きった青い空が頭上いっぱいに

広がっていた。 

今日は、翔子の結婚する日であった。

その日を迎えて始めて、耕一は自分の間違いに気がついたが、とき既に遅かった。

取り返しのつくことではなかった。


五月の新緑の季節には緑鮮やかだった庭の柿の若葉も、今では、すっかり色づいて

雨に濡れた幹の黒と対照的に、ただ静かに赤く黄色く耀いていた。

翔子に相談を受けたのは、ゴールデンウィークの暖かい日だった。

ブルーのサマーウールのワンピースに真珠のネックレスがよく似合っていた。

楽しかった月日はいつのまにか過ぎ去ってしまい、ただ 「さよなら」 とひとこと

言い残しただけで、翔子は、立ち去って行ってしまった。

これで、すべてが終ってしまったのだよネ!

朝日を浴びた枯れ葉は、より一層、秋の色を深めて悲しいほど綺麗であった。