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ラーコシが何時の時点からライク粛正を考えついたのか分からない。いくつか理由は挙がられるが、それも憶測に留まる。
ソ連内務省、したがってスターリンの命を受けたラーコシは、戦中に西欧へ亡命した共産主義者で、戦後になってハンガリーに戻った者に狙いを定めた。当時の共産党はどこも三層の指導者、つまり「モスクワ帰り」、「国内非合法闘争者」、「西欧亡命者」から構成されていた。ハンガリーのトロイカあるいは「4人組」は皆、モスクワ帰りである。彼らが標的になることない。しかし、政治局の残りのメンバーには西欧亡命者がおらず、ライクもカーダールも「国内残留組」だった。
当時、戦争前からスイスに居住し、ハンガリー軍の諜報部員として働いていたフェレンツ・エドモンドは、戦中・戦後の亡命ハンガリー人の動向を報告していた。その報告の一つに、スイスからハンガリーに戻り、党の中央委員として党本部に勤務するスーニィ・ティボールの名があった。
戦時中、ヨーロッパにおけるアメリカの外交・諜報の指揮者として、アレン・ウェルシュ・ダレスが駐在していた。ダレス家は華麗な一族で、アレンは国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレスの実弟である。プリンストン大学を卒業して外交官となり、レーニンのアメリカ渡航ビザ拒否時の外交責任者として知られ、1944年にヒットラー暗殺にも加わった経歴がある。戦後設立されたCIAの第5代長官に就任したが、文民長官の就任は彼が初めてで、1953年から1961年までの長期にわたって長官職を努めた人物である。
終戦直前、ダレスは亡命共産主義者の支援活動にも加わり、スイスのベルンに拠点を置く米軍の諜報機関OSS(Office of Strategic Service)の責任者として活動していた。ハーヴァード大学を卒業して外交官になり、その後生まれ故郷のスイスに共産党員として戻ったノエル・H・フィールドも、同様の支援活動に加わっていた。
フェレンツ・エドモンドが、スーニィ・ティボール等スイス亡命組のハンガリー帰還の詳細をフィールドから聞き、これを報告していた。それによれば、「1945年1月6日、スーニィ・ティボール他4名は、ユーゴスラビア共産主義者から取得した偽の軍医証明書を使って、マルセイユ、ナポリ経由でベオグラードに入り、そこでユーゴスラビアの要請に応じて軍医証明書を廃棄し、セゲドへ入った」という。マルセイユからナポリへはユーゴスラビアが手配したアメリカの軍用機を使ったとある。まさに、アメリカとユーゴスラビアの諜報機関の手助けで、ハンガリーに戻ったことになる。この古い事実が証拠とされ、党本部に勤務するスーニィ一派は、「アメリカ帝国主義とユーゴスラビア修正主義のスパイ」と決めつけられることになった。
他方、この諜報活動を行っていたフェレンツ・エドモンドは、ライク裁判が行われている1949年9月、オーストリアのソ連占領地域からアメリカ占領地域に出向いた後、消息が分からなくなった。二重スパイであった可能性を否定できず、ここからライク事件は「アメリカの挑発」によって惹き起こされたと考えることもできるが、二重スパイからライク事件へ繋げる論理は飛躍している。 |