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Vol. 156  ハンガリーからのメッセージ
ハンガリー動乱50年:動乱を招いた暗黒時代(その2)
 
 

V. ユーゴスラビア除名

 

   戦後一時期の米ソ蜜月時代が終わり、二大大国は覇権の確保・拡大に努め始めることになり、戦後世界は冷戦時代に突入した。社・共合同はまさにソ連の覇権を確保するために、各国の連立政権を共産党独裁政権へ移行させる前提条件であった。

   そして、さらにソ連の影響力確保のために、ソ連型社会主義とは異なる道を選択するユーゴスラビアを国際共産主義運動から破門(1948年6月)し、中東欧各国共産党に危機感を煽り、スターリン主導のソ連型社会主義の建設を押しつけたのである。スターリンと同様に、共産党内に「敵」を見つけ、それを排除する各種の「奸計」が企てられ、それぞれの国で個人崇拝的な権力構造が樹立された。

   1948年9月、ソ連内務省のブダペスト代表部代理クレムニェフが、ライクに代わって内務大臣ポストを得たカーダールと面会し、ファルカシュ・ミハーイの息子のヴラジミールがこの時の通訳を担当した。「ハンガリーは他の東欧諸国と違って、内部の敵や民族主義者との闘いが不十分だ」と注意を喚起するのが、この会談の目的だった。この会談の趣旨を踏まえ、ラーコシはAVH内に特命部隊を設置した。スーチ・エルヌー率いる部隊がそれで、ピーテル・ガーボルの直接の指揮下に置かれ、共産党内部の「敵」を摘発するために特別の権限を与えられた秘密組織であった。

    ここから、AVHはそれまでの共産党の政敵の摘発から、共産党内部の「敵」の摘発に向かった。「内部の敵」は小物であってはならない。十分にインパクトのある大物でなければならなかった。

「オペラハウス」

「鎖橋」

W. 亡命共産主義者の摘発−ダレス機関の関与

 

    ラーコシが何時の時点からライク粛正を考えついたのか分からない。いくつか理由は挙がられるが、それも憶測に留まる。

    ソ連内務省、したがってスターリンの命を受けたラーコシは、戦中に西欧へ亡命した共産主義者で、戦後になってハンガリーに戻った者に狙いを定めた。当時の共産党はどこも三層の指導者、つまり「モスクワ帰り」、「国内非合法闘争者」、「西欧亡命者」から構成されていた。ハンガリーのトロイカあるいは「4人組」は皆、モスクワ帰りである。彼らが標的になることない。しかし、政治局の残りのメンバーには西欧亡命者がおらず、ライクもカーダールも「国内残留組」だった。

    当時、戦争前からスイスに居住し、ハンガリー軍の諜報部員として働いていたフェレンツ・エドモンドは、戦中・戦後の亡命ハンガリー人の動向を報告していた。その報告の一つに、スイスからハンガリーに戻り、党の中央委員として党本部に勤務するスーニィ・ティボールの名があった。

    戦時中、ヨーロッパにおけるアメリカの外交・諜報の指揮者として、アレン・ウェルシュ・ダレスが駐在していた。ダレス家は華麗な一族で、アレンは国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレスの実弟である。プリンストン大学を卒業して外交官となり、レーニンのアメリカ渡航ビザ拒否時の外交責任者として知られ、1944年にヒットラー暗殺にも加わった経歴がある。戦後設立されたCIAの第5代長官に就任したが、文民長官の就任は彼が初めてで、1953年から1961年までの長期にわたって長官職を努めた人物である。

    終戦直前、ダレスは亡命共産主義者の支援活動にも加わり、スイスのベルンに拠点を置く米軍の諜報機関OSS(Office of Strategic Service)の責任者として活動していた。ハーヴァード大学を卒業して外交官になり、その後生まれ故郷のスイスに共産党員として戻ったノエル・H・フィールドも、同様の支援活動に加わっていた。

   フェレンツ・エドモンドが、スーニィ・ティボール等スイス亡命組のハンガリー帰還の詳細をフィールドから聞き、これを報告していた。それによれば、「1945年1月6日、スーニィ・ティボール他4名は、ユーゴスラビア共産主義者から取得した偽の軍医証明書を使って、マルセイユ、ナポリ経由でベオグラードに入り、そこでユーゴスラビアの要請に応じて軍医証明書を廃棄し、セゲドへ入った」という。マルセイユからナポリへはユーゴスラビアが手配したアメリカの軍用機を使ったとある。まさに、アメリカとユーゴスラビアの諜報機関の手助けで、ハンガリーに戻ったことになる。この古い事実が証拠とされ、党本部に勤務するスーニィ一派は、「アメリカ帝国主義とユーゴスラビア修正主義のスパイ」と決めつけられることになった。

   他方、この諜報活動を行っていたフェレンツ・エドモンドは、ライク裁判が行われている1949年9月、オーストリアのソ連占領地域からアメリカ占領地域に出向いた後、消息が分からなくなった。二重スパイであった可能性を否定できず、ここからライク事件は「アメリカの挑発」によって惹き起こされたと考えることもできるが、二重スパイからライク事件へ繋げる論理は飛躍している。


盛田常夫 盛田 常夫

1947年
富山県高岡市出身
法政大学社会学部教授、野村総合研究所研究顧問を経て、ハンガリー立山研究所取締役社長

ブダペスト在住

盛田常夫のホームページ:
ハンガリーからのメッセージ
盛田常夫訳「コルナイ自伝」の国際サイト:
Korunai Yanoshu:MEMORIES
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バルトーク国際ピアノコンクール優勝金子三勇士君

猫 猫 猫


盛田氏の家に突然居座って
しまったネコの花ちゃん。
夜はガレージに
入れてあげるそうです。
(*画像クリックで拡大写真)

樹氷 樹氷 樹氷 樹氷


盛田氏はブダペストに
お住まいですが、
ブダペスト丘陵に連なる
小高いところでは、氷点下5度以下
になると、このような樹氷の
光景が見られるそうです。

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ハンガリー在住日本人会会報
「ドナウ通信2008年春季号」

盛田常夫マラソン 

※盛田常夫氏は、昔からテニス、スキー等、スポーツ万能で、最近では毎年様々なマラソンに出場しています。
(画像クリックすると拡大します)

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