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ナチスドイツの進駐、それをバックに跳梁したハンガリーのファシスト集団「矢十字党」の暴力行為によって、終戦間際の短期間にハンガリーのユダヤ人の数多くがアウシュヴィッツへ送られた。この悲劇を生き延びたユダヤ系の若者にとって、ファシズムと戦い、戦後に再建された共産党へ加わることは、自然なことだった。
バウエル・ミクローシュは終戦と同時に、ハンガリー共産党へ入党した。一足早く、シェーンボルク・ユーディットとその弟センディ・ジョルジュも入党していた。ユーディットとミクローシュはほどなく結婚した。この彼ら3名は1945年1月に創設されたばかりの政治警察(PRO, Politikai Rendeszeti Osztaly)に入り、やがてバウエルとセンディはやり手の取調官として名をはせることになった。
この政治警察は共産党が権力の武力装置(警察・軍隊)を掌握するために組織されたもので、形式上はブダペスト警察本部の一部として創設されたが、実態は共産党の警察武力組織であった。ユダヤ系の青年が多数を占めるように組織され、「ユダヤ人の復讐心」が利用された。
翌1946年に、この政治警察は国家保安警察(ÁVO, Államrendórség Államvédelmi Osztály)に組織替えされ、共産党が握る内務省管轄下に置かれたが、実態は変わらなかった。そして、カーダール・ヤーノシュが内務大臣になった1948年9月に、内務省の国家保安局(ÁVH, Államvédelmi Hatósága)として、自立した組織形態をとることになった。いわば共産党の私権力が国家権力として、公認されたのである
1946年のPRO名簿によれば、バウエル・ミクローシュは第15課の課長を務め、その部下としてセンディ・ジョルジュとペトゥー・ラースロー(SZDSZの元委員長ペトゥー・イヴァーンの父親)が配置されている。PRO創設からの保安警察のメンバーはいわばエリートで、彼らは新しい世界を作るという希望と信念で共産党に加わったが、次第に権力・暴力装置としての役割を体現して、強権的に告発した「敵」を拷問し、処刑する道を辿ることになった。
PRO、AVO、AVHの組織を創設から一貫して現場で指揮してきたのが、悪名高いピーテル・ガーボルである。事実上、ピーテルの行動を監督する上司はおらず、すべての指令は直接、ラーコシからピーテルに伝えられた。ラーコシはスターリンを習い、共産党権力の武力装置を掌握することで、自らの独裁的地位を維持するようになったのである。
当時、共産党はラーコシのほか、ゲルー・エルヌーとファルカシュ・ミハーイが最高幹部に名を連ねており、これら3名はトロイカとよばれていたが、その力関係は対等なものではなかった。ゲルーは経済問題、ファルカシュはラーコシの腹心として内務問題を担当していたが、スターリンの信頼厚いラーコシはこの2人の上に君臨していた。
ファルカシュの息子ヴラジミールは短期間のモスクワ滞在からブダペストに戻り、父の片腕として、政治警察の現場に入り、各種の奸計の立案と拷問の現場に居合わせることになった。バウエルやセンディなどの精鋭は、ピーテルやファルカシュの有能な部下として、各種のフレームアップに重要な役割を果たしていった。
容疑者の拘束、拷問が行われたAVO、AVHの本部は、アンドラーシ通り60番地にあった。今、それが「恐怖の館」博物館になっている。
(関連記事は、http://morita.tateyama.huを参照されたい)
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「オペラハウス」 |
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